レオ3世はシャルルマーニュに対し皇帝戴冠式を断行した。
【西ローマ帝国の復活】である。
フランスとドイツという、日本と朝鮮半島のような愛憎入り混じる友好関係の両国の歴史は共にこの復活西ローマ帝国を起源にもつ。
(正確にはフランスとドイツ以外の現西ヨーロッパの殆どの国だが)
なので、この復活西ローマ帝国が汎ヨーロッパ主義というか現在のEUの起源であるとする考えもあるようだ。
スペインの著名な建築家、アントニオ・ガウディは「自分はスペインの中でもローマに近い都市で生まれ育った」と自分の出自を誇ったエピソードがあるらしい。
話を端折って、16世紀に至っても「神聖ローマ帝国」と名乗って“ローマ”の称号にこだわるヨーロッパ人の心情は東アジアの島国育ちにはなかなかに理解しがたい。
このローマにこだわる心情とは要するに
「ヨーロッパを支配するのはローマ皇帝を戴くローマでなくてはならない」
という問答無用の論理だろう。
この論理はなかなかに強固で実はヨーロッパの歴史において皇帝という人間は、古代ローマ帝国からナポレオン革命にいたる1500年間、どの時代にも必ず“2人しか”存在してらならないことになっている。
1人は東ローマ皇帝、つまりピザンツ帝国皇帝。これはピザンツ帝国滅亡後ロシアに帝位が渡りロシアにて皇帝位は継承され20世紀まで続く。
そしてもう1人は西ローマ帝国皇帝、これはシャルルマーニュののち、紆余曲折して神聖ローマ帝国皇帝として帝位を紡ぎ、時代がくだると主にハプスブルク家が皇帝を担う。
(これはマリーアントワネットの母親)
フランス革命で断頭台の露となったマリーアントワネットの父親は神聖ローマ帝国皇帝だが、拡大解釈な表現をすればマリーアントワネットは西ローマ帝国皇帝の娘なのだともいえる。
フランス革命の直前までローマ皇帝が生存していたというのは意外だと思う。
そしてそれは常に2人。
皇帝に憧れた実力者が勝手に名乗ることは憚られた。フランス国王の中には皇帝に憧れハプスブルク家からなんとか皇帝位を奪えないかを本気で画策した王もいたくらいだ。
ローマというものは東西があり、教会も東西があり、皇帝も東西にいる。
この考えが中世ヨーロッパ世界の大原則で、近世いたってかなり薄れたがまだ建前上の常識として歴史的事実として機能していた。
これをまったく無視し、勝手に自ら皇帝を名乗ったナポレオンという男がいかにエポックメイキングだったのかはいつ考えても興味深い。
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