大学生の頃から古本屋巡りが好きなんですが今日はこの本を買い求めました。
それがこちら
金沢南西部の地域でして、何を隠そう僕の実家があるところ。
米丸なんて地名は我が母校米丸小学校以外で出会ってないから『米丸物語』というタイトルを見て「まさか!!!」と思いながらページをめくるとやはりそうで、「我が米丸校下(これは金沢弁)の話ではないか。。」と即買い。
地名、人名がともかくローカル極まりないので「お、この苗字は同級生の家だな」とかふむふむしながら読んだんですけど、ふと「第四章 学校教育」の次の文章
「…藩政時代、金沢から岸村某という人が来て、私塾が…」
藩政時代、金沢から米丸村に派遣された人が私塾を開き、、、むむ。「金沢から」⁇
この米丸村は金沢ではないのかい⁇
いま現在は思いっきり金沢市内ですが。。
そうなのです、僕の生まれ育った米丸村もとい米丸校下はもともと金沢ではないのですよ。
金沢市に編入されたのも昭和10年になってから。
車を走らせれば金沢城まで15分ほど、距離にして6キロ程度ですがここは元々「金沢ではない」のですよ。
石川郡米丸村です。
そもそも、廃藩置県で金沢県が置かれた時の金沢市はほとんど旧城下町の範囲内だけ。
10.4キロ㎡のみ。
そりゃあ旧市街に暮らす方々と郊外に住む人間の金沢に対する思い入れの深さと長さに差があるのも致し方ないかな、です。
その後、合併を繰り返していき市の範囲は米丸村を合併した時には51.5キロ㎡に。
いま現在は467.7キロ㎡です(面積に関してはすべて出典元Wikipedia)
明治になって「金沢市」ができるときにどういう経緯があったかは勉強不足ですが、旧市街以外をひとまず金沢としなかったということは、中心部の人のプライドを僕は感じちゃうんだよなぁ。
0 件のコメント:
コメントを投稿