2016年11月11日金曜日

加賀茶道を歩く!宮崎寒雉の塩屋釜編

金沢の街歩き必須アプリ、【古今金澤】を使って巡る加賀茶道。
加賀茶道ってなんじゃい、ということはひとまず置いておいて今回は「宮崎寒雉の塩屋釜編」をお送りいたします。

宮崎寒雉というのは茶の湯釜を作る釜師の名前でして、江戸時代の初期から金沢で活躍し現代まで14代を数えます。
元々は石川県穴水町の仲居という町の出身なのですが裏千家流初代の仙叟宗室に見出されて釜師としてのキャリアを積んでいきます。

この仙叟と寒雉はお茶人と釜師という関係ですが、残されている史料から窺うにそれ以上に仲の良いお茶仲間だったのではと僕は思います。

例えばこんなエピソード。

ある日、仙叟と寒雉が卯辰山(金沢のひがし茶屋街あたり)をピクニック中に仙叟がおむすびを食べようとして手がすべりおむすびがコロコロ転がっていき食べられなかったことがありました。

リアルおむすびころりんか!!(スマホのCMか!!)っと大きい声でツッコミたくなりますがまぁそんなことがありましたと。

しかしここから寒雉が粋なことをするのです。
後日、仙叟の屋敷を訪れた寒雉は、
「このあいだのおむすびを持ってきました」





2016年6月10日金曜日

明治初期の美術業界と藩閥政治

昨日の歴活にて代表の安藤が【岡倉天心】について話しておりましたが、天心が東京美術学校(現・東京藝大)を追い出されることになる「東京美術学校騒動」について補足を。

テキストはこちら


事の経緯をおさらいしますと、天心は明治22年(1887年)に開校した東京美術学校の校長に着任します。この時なんと27歳。
早熟です。
学校運営に辣腕をふるう天心ですが、その天心に突如解任を求める怪文書が届くのが明治31年(1898年)。
これは同校内の天心批判派が出したとされ、結局天心以下多数の教官がいっせいに辞表を提出する一大騒動へ発展し、天心は日本美術院を設立(現在の院展)し、在野にて美術運動を展開していくことになる。


ところで、この時期の美術家の立場には出身藩が維新時に佐幕・新政府のどちら側であったかが大きく影響しているようである。

(そもそも、美術の担い手が士族が圧倒的に多いという特徴がある)

それは絵画において顕著で、初期洋画と工部美術学校(初の公的美術教育機関)には旧佐幕派の藩の出身者が多い。
川上冬崖、高橋由一、川村清雄…(直接の幕臣)

それに引きかえ、洋画新派は藩閥雄藩の出身者が多い。
黒田清輝、和田英作、藤島武二…(薩摩藩)

実は、東京美術学校設立時には洋画コースは存在しない。設立されたのは7年後の明治29年(1896年)
教官として迎えられたのは黒田清輝と藤島武二。

あまり深入しないがこれ以降日本における洋画の普及、教育は黒田清輝を中心に展開する。
明治40年に文部省美術展覧会(現在の日展)を開設したのは黒田清輝、そして首相の西園寺公望。

日本洋画のアカデミズムはまさに藩閥勢力を権力背景として形成されていったのである。


長くなったのでまた次回。。

2016年5月12日木曜日

第92回【金沢歴活】新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術

2016/05/12
於cafe素都
文責 髙橋勇太

【新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術】

今回は絶対に観ておくべき桃山芸術と題しまして、実際に私が観てきた中でオススメの作品をご案内。




◆そもそも安土桃山時代(1573〜1615)ってどんな時代?

政治史では室町幕府滅亡(1573)から関ヶ原の合戦(1600)まで僅か27年。
文化史では豊臣氏滅亡(1615)まで、どちらにせよ半世紀にも満たない、中世から近世への変わり目。
戦国の混沌と江戸の安定の狭間。
時代の一大転換期。
下剋上の気運高まり信長や秀吉ら天下人が登場。裕福な商人も活躍と、非常にエネルギッシュな時代で芸術においては覇気と生命感に溢れる作品が大本流だがその一方で“侘び”の美意識も誕生した。
とにかく忙しい時代。

新3大・1つめは、、
❶狩野永徳【唐獅子図屏風】


どんな人?
狩野派と呼ばれる画壇の棟梁で京都で活躍、織田信長や豊臣秀吉ら天下人の御用絵師として活動し当時の画壇の頂点に君臨した。
信長〜秀吉という稀代の為政者から次から次に仕事の依頼が来すぎてその死因は一説には過労死といわれる。

作風は?
若い頃は細密画〜壮年以降はダイナミックな障壁画が多くなる。特に晩年は筆づかいが荒々しく乱暴な書きっぷりが必見。
基本的に水墨画も細密画も障壁画もなんでもござれ。
個人的には“桃山という時代の空気”をひしひしと感じられる風俗画や大画面の迫力たっぷり障壁画がオススメ。

っでこの作品の見どころは?
何と言っても、獅子がのっしのっしと歩くような豪快で生き生きとした様、迫力、【目力】のすごさ!
ぜひ獅子に睨まれてほしい一品。

新3大・2つめは、、
❷長谷川等伯【松林図屏風】

どんな人?
能登七尾出身の画家。
30代で一念発起して妻子を連れて上京。
当時、桃山画壇の寵児であった狩野永徳に真っ向勝負、永徳の死後は秀吉からの依頼で瑞雲寺の壁画を任され桃山画壇の勢力図を塗り替えた。
千利休とも懇意にし、日本的水墨画の完成ともいわれる「松林図屏風」を生み出した。

作風は?
七尾時代は繊細かつ清新な、仏画を多く手がけるが京都にのぼってからは華麗な金碧画も描く。
圧倒的な力強さの永徳に対し等伯は風や大気を描き情感豊かな水墨画様式を完成させた。

っでこの作品の見どころは?
唐獅子屏風より一回り小さいような大きさで、案外小ぶり。そして背景の紙部分も黄ばんでいたりと写真と実際には大違いなんですが、画から霧が滲み出てくるような感じは実際に見ないと分からない。幽玄な、といえばいいのかな。幽かに玄く、霧が流れてくる雰囲気、体感いただきたいですね。

新3大・最後はこちら

❸長次郎【ムキ栗】


どんな人?
現代まで一五代続く窯元樂家の祖。
千利休の美意識を反映した茶碗の作り手として知られる。
生没年不詳でその生涯は不明な点も多いが中国からの渡来系移民の子孫といわれる。

作風は?
樂焼は轆轤を使わず手で捏ね上げるため素朴な、自然な姿を残す。
同時代の茶碗と比べると長次郎は幾分小ぶりな寸法でその形はいわゆる宗易形(利休形)とよばれ色は黒とも赤とも表現できないような、土そのものの風合い。樂歴代の中でも長次郎の“色”は一線を画す。

っでこの作品の特徴は?
長次郎の茶碗って当代の樂吉左衞門さんも指摘している通り、黒なのか赤なのか醜いのか美しいのか分からない、理解できないことが魅力だと思う。

このムキ栗なんて特にそう。
すごい肌してる。
色もよう分からないけど形も凄くて、上から見ると方形と円形が重なり合っていて更に井戸のような底なしの深さを感じる。宇宙ですよ。
見るとなんとも言えない気分になりますがこれは実際に見てほしいな。


以上、新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術でした!

第92回【金沢歴活】新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術

2016/05/12
於cafe素都
文責 髙橋勇太

【新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術】

今回は絶対に観ておくべき桃山芸術と題しまして、実際に私が観てきた中でオススメの作品をご案内。




◆そもそも安土桃山時代(1573〜1615)ってどんな時代?

政治史では室町幕府滅亡(1573)から関ヶ原の合戦(1600)まで僅か27年。
文化史では豊臣氏滅亡(1615)まで、どちらにせよ半世紀にも満たない、中世から近世への変わり目。
戦国の混沌と江戸の安定の狭間。
時代の一大転換期。
下剋上の気運高まり信長や秀吉ら天下人が登場。裕福な商人も活躍と、非常にエネルギッシュな時代で芸術においては覇気と生命感に溢れる作品が大本流だがその一方で“侘び”の美意識も誕生した。
とにかく忙しい時代。

新3大・1つめは、、
❶狩野永徳【唐獅子図屏風】


どんな人?
狩野派と呼ばれる画壇の棟梁で京都で活躍、織田信長や豊臣秀吉ら天下人の御用絵師として活動し当時の画壇の頂点に君臨した。
信長〜秀吉という稀代の為政者から次から次に仕事の依頼が来すぎてその死因は一説には過労死といわれる。

作風は?
若い頃は細密画〜壮年以降はダイナミックな障壁画が多くなる。特に晩年は筆づかいが荒々しく乱暴な書きっぷりが必見。
基本的に水墨画も細密画も障壁画もなんでもござれ。
個人的には“桃山という時代の空気”をひしひしと感じられる風俗画や大画面の迫力たっぷり障壁画がオススメ。

っでこの作品の見どころは?
何と言っても、獅子がのっしのっしと歩くような豪快で生き生きとした様、迫力、【目力】のすごさ!
ぜひ獅子に睨まれてほしい一品。

新3大・2つめは、、
❷長谷川等伯【松林図屏風】

どんな人?
能登七尾出身の画家。
30代で一念発起して妻子を連れて上京。
当時、桃山画壇の寵児であった狩野永徳に真っ向勝負、永徳の死後は秀吉からの依頼で瑞雲寺の壁画を任され桃山画壇の勢力図を塗り替えた。
千利休とも懇意にし、日本的水墨画の完成ともいわれる「松林図屏風」を生み出した。

作風は?
七尾時代は繊細かつ清新な、仏画を多く手がけるが京都にのぼってからは華麗な金碧画も描く。
圧倒的な力強さの永徳に対し等伯は風や大気を描き情感豊かな水墨画様式を完成させた。

っでこの作品の見どころは?
唐獅子屏風より一回り小さいような大きさで、案外小ぶり。そして背景の紙部分も黄ばんでいたりと写真と実際には大違いなんですが、画から霧が滲み出てくるような感じは実際に見ないと分からない。幽玄な、といえばいいのかな。幽かに玄く、霧が流れてくる雰囲気、体感いただきたいですね。

新3大・最後はこちら

❸長次郎【ムキ栗】


どんな人?
現代まで一五代続く窯元樂家の祖。
千利休の美意識を反映した茶碗の作り手として知られる。
生没年不詳でその生涯は不明な点も多いが中国からの渡来系移民の子孫といわれる。

作風は?
樂焼は轆轤を使わず手で捏ね上げるため素朴な、自然な姿を残す。
同時代の茶碗と比べると長次郎は幾分小ぶりな寸法でその形はいわゆる宗易形(利休形)とよばれ色は黒とも赤とも表現できないような、土そのものの風合い。樂歴代の中でも長次郎の“色”は一線を画す。

っでこの作品の特徴は?
長次郎の茶碗って当代の樂吉左衞門さんも指摘している通り、黒なのか赤なのか醜いのか美しいのか分からない、理解できないことが魅力だと思う。

このムキ栗なんて特にそう。
すごい肌してる。
色もよう分からないけど形も凄くて、上から見ると方形と円形が重なり合っていて更に井戸のような底なしの深さを感じる。宇宙ですよ。
見るとなんとも言えない気分になりますがこれは実際に見てほしいな。


以上、新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術でした!

2016年4月14日木曜日

リポート【第88回金沢歴活】加賀蒔絵って何⁇


今金沢においてにわかに話題!
なのか!?
か加賀蒔絵について今朝はお話。
といっても丁度1年前にもお話した【漆聖・松田権六】のpart2的な内容。

(松田権六さん)

加賀蒔絵ってのはそもそも江戸時代の加賀藩がとった文化政策に端を発しまして、金沢という地は自然発生的にもともと漆が盛んに行われていたわけではない、というのが特徴かな。
要は、侍文化に適した漆が発展しました。

(これは五十嵐道甫)

っでこれを明治維新以降、発展させた第一人者が松田権六さんなのです。

この人は圧倒的努力に基づく漆の強化人間というかスーパーマンで、藝大の卒業制作では前代未聞の100点がつけられ作品は藝大が買い上げ、25歳の頃にはたまたまアパートに遊びに来た友達が部屋に転がっていた未完成の作品を勝手に公募展に出品して入選、大金を得るわ、輸出用の万年筆をプロデュースすればヨーロッパのダンヒルからぜひともパーティに来てくれと言われるわ、戦後は文化庁の国宝を決める委員会もつとめいわゆる人間国宝制度まで作っちゃうという、何だか書いていてよく分からなくなるようなお方です。


そんか松田権六さんで1番好きなのはこれですね。

写真がイマイチすぎますが、
【蒔絵槇に四十雀模様二段卓】
東京国立近代美術館に所蔵で石川ではなかなか観れませんが、玄から金に次第に変化していく卓がなんとも綺麗なんですよ。

松田権六さんはお話もお上手だったようで、著作も読んでいて面白いのでオススメです。
お世話になってる人から受けたくない仕事が依頼された時の断り方や、大企業に藝術をプレゼンするやり方まで多種多様。
『うるしのはなし』と『うるしのつや』があるのですが『うるしのつや』の方がエピソード豊富でオススメですね♪

2016年4月12日火曜日

「金沢らしさ、の余談。米丸物語について」

本を読むのが好きという、月並みすぎる趣味がありますyutaです。
大学生の頃から古本屋巡りが好きなんですが今日はこの本を買い求めました。
それがこちら

米丸物語。
金沢の地域史というか、米丸という金沢市の一地域のお話。

米丸と書いて「よねまる」と読みます。
金沢南西部の地域でして、何を隠そう僕の実家があるところ。

米丸なんて地名は我が母校米丸小学校以外で出会ってないから『米丸物語』というタイトルを見て「まさか!!!」と思いながらページをめくるとやはりそうで、「我が米丸校下(これは金沢弁)の話ではないか。。」と即買い。

地名、人名がともかくローカル極まりないので「お、この苗字は同級生の家だな」とかふむふむしながら読んだんですけど、ふと「第四章 学校教育」の次の文章
「…藩政時代、金沢から岸村某という人が来て、私塾が…」

藩政時代、金沢から米丸村に派遣された人が私塾を開き、、、むむ。「金沢から」⁇

この米丸村は金沢ではないのかい⁇
いま現在は思いっきり金沢市内ですが。。

そうなのです、僕の生まれ育った米丸村もとい米丸校下はもともと金沢ではないのですよ。

金沢市に編入されたのも昭和10年になってから。
車を走らせれば金沢城まで15分ほど、距離にして6キロ程度ですがここは元々「金沢ではない」のですよ。
石川郡米丸村です。

そもそも、廃藩置県で金沢県が置かれた時の金沢市はほとんど旧城下町の範囲内だけ。
10.4キロ㎡のみ。
そりゃあ旧市街に暮らす方々と郊外に住む人間の金沢に対する思い入れの深さと長さに差があるのも致し方ないかな、です。

その後、合併を繰り返していき市の範囲は米丸村を合併した時には51.5キロ㎡に。
いま現在は467.7キロ㎡です(面積に関してはすべて出典元Wikipedia)

明治になって「金沢市」ができるときにどういう経緯があったかは勉強不足ですが、旧市街以外をひとまず金沢としなかったということは、中心部の人のプライドを僕は感じちゃうんだよなぁ。


2016年4月11日月曜日

金沢を観光客視点で捉えつつもそこに住んでいるという矛盾

日曜の夜なんで、第3回目はギアを上げて書こうと思います。

僕が書こうとしていることってつまりは【金沢人にしか書けないいびつな金沢愛】なんですよ。



この『金沢らしさとは何か?』にも書かれている「金沢の人は本当に金沢が好きだ」という部分、本当にその通りだと思うんです。
あーだこーだ言って結局僕は金沢の事が大好きなんですよね。

ただ、それは生まれ故郷だから好きっていう問答無用の事実だからなんですよ。
自分の肉親のことを放っておけないのと同じです。理由なんてないんです、だって自分の親なんだもん。

だから僕が金沢の事が好きっていうことは【理屈ではなく生まれ故郷だから】が殆どなんです。
金沢の奥ゆかしさ、伝統工芸、茶道やお能、お菓子や料理、、四季折々の風景だとか城下町だとか金沢の美辞麗句のフルコースがあるから、それを知ってるから好きとかではないんです。


だけど、金沢というモノに対してどうしても埋められない距離も僕にはあるんですよね。
僕は両親が金沢の生まれではないからネイティヴなリアル金沢人でない。
まぁ言うても、両親とも石川県人、父は口能登の羽咋市、母は加賀藩3代利常ゆかりの小松市。
(ついでにいうと奥さんは奥能登)

同じ石川県やん、と思うかもですが、金沢市内に親戚は1人もいない、お盆だって新盆でなくて旧盆だし金沢市民なのにお墓まいりでキリコは買ったことありません。
小さい頃は金沢市内の神社にお参りに行くことも殆どなく、文化的なことでいえば母の実家の小松の方が僕の原体験。

百万石祭りよりもお旅まつりの方が、尾山神社よりも安宅住吉神社や那谷寺の方が、森八や諸江屋などの和菓子屋よりも松葉屋の方がシンパシーを感じてしまう。

上に羅列した【金沢の美辞麗句のフルコース】を
“覚えた”
のは大学入学後の二十歳くらいから。

思春期を過ぎて、大学入学後という、ある程度開けた視界の中で初めて捉えた“金沢”。
それは例えるならば【観光客の視点】と同じで客観的に、消費の対象として金沢を視るんです。

へぇ、金沢ってこんな街なんだ、すごいねぇ、行ってみようか、のような。
金沢は伝統工芸や伝統文化が盛んな街なんだってねぇ、知ってる?のような。。

金沢文化を、肉親など近しい人からではなく雑誌などのメディアや大学の講義で知ったので、金沢文化に対して粘着的な付き合いの深さがないんです。


それが、金沢をやや冷ややかに見てしまう原因な気もするのですが、何だか長くなってきたのでまた次回♪