2016年4月14日木曜日

リポート【第88回金沢歴活】加賀蒔絵って何⁇


今金沢においてにわかに話題!
なのか!?
か加賀蒔絵について今朝はお話。
といっても丁度1年前にもお話した【漆聖・松田権六】のpart2的な内容。

(松田権六さん)

加賀蒔絵ってのはそもそも江戸時代の加賀藩がとった文化政策に端を発しまして、金沢という地は自然発生的にもともと漆が盛んに行われていたわけではない、というのが特徴かな。
要は、侍文化に適した漆が発展しました。

(これは五十嵐道甫)

っでこれを明治維新以降、発展させた第一人者が松田権六さんなのです。

この人は圧倒的努力に基づく漆の強化人間というかスーパーマンで、藝大の卒業制作では前代未聞の100点がつけられ作品は藝大が買い上げ、25歳の頃にはたまたまアパートに遊びに来た友達が部屋に転がっていた未完成の作品を勝手に公募展に出品して入選、大金を得るわ、輸出用の万年筆をプロデュースすればヨーロッパのダンヒルからぜひともパーティに来てくれと言われるわ、戦後は文化庁の国宝を決める委員会もつとめいわゆる人間国宝制度まで作っちゃうという、何だか書いていてよく分からなくなるようなお方です。


そんか松田権六さんで1番好きなのはこれですね。

写真がイマイチすぎますが、
【蒔絵槇に四十雀模様二段卓】
東京国立近代美術館に所蔵で石川ではなかなか観れませんが、玄から金に次第に変化していく卓がなんとも綺麗なんですよ。

松田権六さんはお話もお上手だったようで、著作も読んでいて面白いのでオススメです。
お世話になってる人から受けたくない仕事が依頼された時の断り方や、大企業に藝術をプレゼンするやり方まで多種多様。
『うるしのはなし』と『うるしのつや』があるのですが『うるしのつや』の方がエピソード豊富でオススメですね♪

2016年4月12日火曜日

「金沢らしさ、の余談。米丸物語について」

本を読むのが好きという、月並みすぎる趣味がありますyutaです。
大学生の頃から古本屋巡りが好きなんですが今日はこの本を買い求めました。
それがこちら

米丸物語。
金沢の地域史というか、米丸という金沢市の一地域のお話。

米丸と書いて「よねまる」と読みます。
金沢南西部の地域でして、何を隠そう僕の実家があるところ。

米丸なんて地名は我が母校米丸小学校以外で出会ってないから『米丸物語』というタイトルを見て「まさか!!!」と思いながらページをめくるとやはりそうで、「我が米丸校下(これは金沢弁)の話ではないか。。」と即買い。

地名、人名がともかくローカル極まりないので「お、この苗字は同級生の家だな」とかふむふむしながら読んだんですけど、ふと「第四章 学校教育」の次の文章
「…藩政時代、金沢から岸村某という人が来て、私塾が…」

藩政時代、金沢から米丸村に派遣された人が私塾を開き、、、むむ。「金沢から」⁇

この米丸村は金沢ではないのかい⁇
いま現在は思いっきり金沢市内ですが。。

そうなのです、僕の生まれ育った米丸村もとい米丸校下はもともと金沢ではないのですよ。

金沢市に編入されたのも昭和10年になってから。
車を走らせれば金沢城まで15分ほど、距離にして6キロ程度ですがここは元々「金沢ではない」のですよ。
石川郡米丸村です。

そもそも、廃藩置県で金沢県が置かれた時の金沢市はほとんど旧城下町の範囲内だけ。
10.4キロ㎡のみ。
そりゃあ旧市街に暮らす方々と郊外に住む人間の金沢に対する思い入れの深さと長さに差があるのも致し方ないかな、です。

その後、合併を繰り返していき市の範囲は米丸村を合併した時には51.5キロ㎡に。
いま現在は467.7キロ㎡です(面積に関してはすべて出典元Wikipedia)

明治になって「金沢市」ができるときにどういう経緯があったかは勉強不足ですが、旧市街以外をひとまず金沢としなかったということは、中心部の人のプライドを僕は感じちゃうんだよなぁ。


2016年4月11日月曜日

金沢を観光客視点で捉えつつもそこに住んでいるという矛盾

日曜の夜なんで、第3回目はギアを上げて書こうと思います。

僕が書こうとしていることってつまりは【金沢人にしか書けないいびつな金沢愛】なんですよ。



この『金沢らしさとは何か?』にも書かれている「金沢の人は本当に金沢が好きだ」という部分、本当にその通りだと思うんです。
あーだこーだ言って結局僕は金沢の事が大好きなんですよね。

ただ、それは生まれ故郷だから好きっていう問答無用の事実だからなんですよ。
自分の肉親のことを放っておけないのと同じです。理由なんてないんです、だって自分の親なんだもん。

だから僕が金沢の事が好きっていうことは【理屈ではなく生まれ故郷だから】が殆どなんです。
金沢の奥ゆかしさ、伝統工芸、茶道やお能、お菓子や料理、、四季折々の風景だとか城下町だとか金沢の美辞麗句のフルコースがあるから、それを知ってるから好きとかではないんです。


だけど、金沢というモノに対してどうしても埋められない距離も僕にはあるんですよね。
僕は両親が金沢の生まれではないからネイティヴなリアル金沢人でない。
まぁ言うても、両親とも石川県人、父は口能登の羽咋市、母は加賀藩3代利常ゆかりの小松市。
(ついでにいうと奥さんは奥能登)

同じ石川県やん、と思うかもですが、金沢市内に親戚は1人もいない、お盆だって新盆でなくて旧盆だし金沢市民なのにお墓まいりでキリコは買ったことありません。
小さい頃は金沢市内の神社にお参りに行くことも殆どなく、文化的なことでいえば母の実家の小松の方が僕の原体験。

百万石祭りよりもお旅まつりの方が、尾山神社よりも安宅住吉神社や那谷寺の方が、森八や諸江屋などの和菓子屋よりも松葉屋の方がシンパシーを感じてしまう。

上に羅列した【金沢の美辞麗句のフルコース】を
“覚えた”
のは大学入学後の二十歳くらいから。

思春期を過ぎて、大学入学後という、ある程度開けた視界の中で初めて捉えた“金沢”。
それは例えるならば【観光客の視点】と同じで客観的に、消費の対象として金沢を視るんです。

へぇ、金沢ってこんな街なんだ、すごいねぇ、行ってみようか、のような。
金沢は伝統工芸や伝統文化が盛んな街なんだってねぇ、知ってる?のような。。

金沢文化を、肉親など近しい人からではなく雑誌などのメディアや大学の講義で知ったので、金沢文化に対して粘着的な付き合いの深さがないんです。


それが、金沢をやや冷ややかに見てしまう原因な気もするのですが、何だか長くなってきたのでまた次回♪

2016年4月9日土曜日

金沢らしさはあると言わざるをえないけどもう少し自分の話

金沢らしさなんて、あるのか⁇
結論からいうとそういうものは「あると言わざるをえない」と僕は思っています。

それは、お茶なり美術なりを抜きにしと思うに至ったのですが。。。




その前に。
昨日のブログにも書きましたが、金沢って芸術を生産、消費している人間とそうでない人間の差が激しいと思うんですよね。

いや、書いていて「それは日本中いや世界中どの地域でも同じではないか⁇」とも思うのですが【金沢らしさ】を語るとき排他的な思想・言動をなされる方って【旧市街】の人が殆どなんですよ。
(結局、これもどの地域でも同じかもしれないけどそうだとしたら金沢でも御多分に洩れずそうだということです)



そして金沢で芸術を生産、消費している人って旧市街の人が結構な割合を占めると思う、統計をとりようがないけど。

旧市街ってのは元々武士が住んでいた地域と思っていただければいいでしょうか。
要は、お城の近くです。
浅野川と犀川の間というか。
旧市街金沢人の方に言わすと、「線路から港側は小さいころ金沢じゃないと思ってた」って発言も1人や2人じゃありません。


北陸新幹線が開通して、「近江町市場が金沢の台所じゃなくなった」って発言されるのはまず間違いなく旧市街の方々です。

郊外育ちの自分に言わすと僕の家庭で近江町市場が台所だった瞬間なんて一瞬たりともありません。

駐車料金かかりすぎる中心部にいきやしないので。
台所ということで言うとマルエーかニュー三久でしょうか(超ローカルトークです、すいません)


そんでもって、僕の家庭にはお茶もお花も謡もましてや着物も無くて、ステロタイプの【金沢】を感じたことは大学入るまでなかったですね。

これは何も僻んで言ってるわけでは無く、僕の通っていた小学校では殆どの家庭がそうだったと思うな。

とはいえ、ここまで書いていて僕が【ステロタイプの金沢】を感じれない、いまだに共感できない理由は家庭環境にもあるような気がします。。
その辺はまた次回に♪

(読んでる人いるのか分からないので殆ど自分の忘備録ですが)

2016年4月8日金曜日

金沢らしさなんてものは、あるのだろうか

開業から1年経ちましたが変わらず北陸新幹線で賑わう金沢にて茶道を嗜む31歳、ファッション販売店長のyutaです。

昨日、こちらの本を買い求めました。

金沢市前市長の山出保さんと有識者によるトークセッションを書き起こしたもの。

「金沢らしさとは何か」


私、捻くれ者ではありますが金沢愛はなかなかのものだと自負しております。某信長の野望では金沢市を治めているのが大名ではなくお寺さんだったということに凹んだ思春期ももっております。

まぁ、信長の野望で前田家が使えない!と嘆くのはゲーマーあるあるとして、ともかく「金沢らしさ」について、途切れ途切れになりながらも金沢で10年ほどお茶を習って、イベントを主催してきた人間なりの視点で書きたく思います。


が、その前に自分のことを少しだけ。
いや、自分のことというか金沢市民の温度差について書いてよろしいでしょうか。


「金沢らしさ」との僕の“初めての遭遇”は二十歳の頃、金沢21世紀美術館にて行われていた【現代美術展】でアルバイトをしていたことです。
現代美術展とは終戦後間もない頃から続く金沢においてとても歴史のある公募展で、人間国宝や芸術院会員の先生方からアマチュア作家まで幅広く応募する、地方ではなかなかの規模の公募展だと思います。
(っということを今はつらつらと書けますが当時は【現代美術展】も【人間国宝】も【芸術院会員】もよく分かっておりませんでした)

この公募展の搬入・展示のアルバイトをしていたのですが、なかなかのカルチャーショックを受けましたよね。

搬入は基本作家ご本人がおいでるのですが(大家除く)次から次にひっきりなしに搬入にくるのですよ。
えーーー!
金沢ってこんなに作家と呼ばれる人が、モノを制作してる人がいるの⁇しかも全部(失礼ながら)なかなかのクオリティだよ⁇と。


何となく金沢、石川県は「美術や芸術が盛ん」(美術と芸術の違いもこの時は知らない)と聞いてはいたけどそれを肌身に感じたのがこの時でした。

それと同時に、金沢において芸術を生産、消費している層とそうでない層との間に無茶苦茶大きな溝というか隔たりがあるなぁとも直感的に思ったものです。



続く

2016年4月7日木曜日

ローマの歴史を知らねばナポレオンのイノベーションは理解できない

西暦800年、12月25日、ミサが執り行われるローマ、サン・ピエトロ大聖堂。
レオ3世はシャルルマーニュに対し皇帝戴冠式を断行した。

【西ローマ帝国の復活】である。

フランスとドイツという、日本と朝鮮半島のような愛憎入り混じる友好関係の両国の歴史は共にこの復活西ローマ帝国を起源にもつ。
(正確にはフランスとドイツ以外の現西ヨーロッパの殆どの国だが)

なので、この復活西ローマ帝国が汎ヨーロッパ主義というか現在のEUの起源であるとする考えもあるようだ。

スペインの著名な建築家、アントニオ・ガウディは「自分はスペインの中でもローマに近い都市で生まれ育った」と自分の出自を誇ったエピソードがあるらしい。


話を端折って、16世紀に至っても「神聖ローマ帝国」と名乗って“ローマ”の称号にこだわるヨーロッパ人の心情は東アジアの島国育ちにはなかなかに理解しがたい。

このローマにこだわる心情とは要するに
「ヨーロッパを支配するのはローマ皇帝を戴くローマでなくてはならない」
という問答無用の論理だろう。

この論理はなかなかに強固で実はヨーロッパの歴史において皇帝という人間は、古代ローマ帝国からナポレオン革命にいたる1500年間、どの時代にも必ず“2人しか”存在してらならないことになっている。

1人は東ローマ皇帝、つまりピザンツ帝国皇帝。これはピザンツ帝国滅亡後ロシアに帝位が渡りロシアにて皇帝位は継承され20世紀まで続く。
そしてもう1人は西ローマ帝国皇帝、これはシャルルマーニュののち、紆余曲折して神聖ローマ帝国皇帝として帝位を紡ぎ、時代がくだると主にハプスブルク家が皇帝を担う。


(これはマリーアントワネットの母親)


フランス革命で断頭台の露となったマリーアントワネットの父親は神聖ローマ帝国皇帝だが、拡大解釈な表現をすればマリーアントワネットは西ローマ帝国皇帝の娘なのだともいえる。


フランス革命の直前までローマ皇帝が生存していたというのは意外だと思う。
そしてそれは常に2人。
皇帝に憧れた実力者が勝手に名乗ることは憚られた。フランス国王の中には皇帝に憧れハプスブルク家からなんとか皇帝位を奪えないかを本気で画策した王もいたくらいだ。


ローマというものは東西があり、教会も東西があり、皇帝も東西にいる。
この考えが中世ヨーロッパ世界の大原則で、近世いたってかなり薄れたがまだ建前上の常識として歴史的事実として機能していた。


これをまったく無視し、勝手に自ら皇帝を名乗ったナポレオンという男がいかにエポックメイキングだったのかはいつ考えても興味深い。

2016年4月5日火曜日

起業家マインドが西ローマ帝国を復活させた

西暦476年に滅びた西ローマ帝国の復活という、破天荒なことを夢想し、結果として実現させたのは教皇レオ3世という、何よりも自分の保身が大切という男である。

このレオ3世の欲望が350年近く埋葬されていた「西ローマ皇帝」を現世に召還しイタリア含めイタリア以北の、当時は蛮地とされた西ヨーロッパに光をあてることとなる。

自堕落な生活のために教皇位を追われそうになったこの男が望んだこと、それさイマイチ権威に欠けともすれば分裂の危機にある「ローマ教皇」という立場の強化であった。


少し話がややこしいが、東ローマ帝国にはローマ教皇とは“別に”「コンスタンティノープル総大主教」がいた。
この東ローマ帝国のキリスト教が後にギリシア正教・東方正教会となり主に東ヨーロッパ、ロシアに伝わり現在に至る。

要約して言うと、東ローマ帝国には東ローマ皇帝がおり、コンスタンティノープル大主教が。
西ローマ帝国には西ローマ皇帝がおりローマ教皇が存在した、ということ。

そして、西ローマ帝国が滅び1人残されたローマ教皇の権威というのは、きわめて心許ないものだった。

そうだから、ローマ教皇であるレオ3世はローマ教皇という立場の強化を望んだのである。



教皇が目をつけたのが当時飛ぶ鳥を落とす勢いのフランク王国の国王、シャルルマーニュである。
シャルルマーニュの王国は現在のドイツからフランス、スペインやイタリアにまたがる大王国で、実質として西ローマ帝国とほぼ同範囲。


この、今や東ローマ皇帝よりも領土の上では古代ローマ帝国を彷彿とさせるフランク人の王はローマ皇帝に相応しいのではないか?
よもや異論を言うものはおるまい。
そしてその皇帝の任命を自分が行えば自分の、ローマ教皇の権威は高まるのではないか?

だがいきなりそんなことをすれば、東ローマ皇帝およびコンスタンティノープル大主教は黙っていないだろう。。。

どうする?



レオ3世はここまで考えて結局実力行使に打ってでた。
東の了解を得ぬままに強引に教皇戴冠式を断行し、一方的に「西ローマ帝国の復活」を宣言したのである。
あとはどうにでもなれ、である。

結果としてこのことによりローマ教皇は皇帝選任権を有することになり中世を通し絶大な世俗権力を握っていくことになる。

自分の権威拡大のためとはいえ、
数百年前に滅んだ国を復活させ、時の権力者にその国の皇帝を任命させる、任命権は自分がもつ、をゼロから作ったレオ3世は今日風にいうとなかなかイノベーティブな人間なのかもしれない。




2016年4月1日金曜日

「ローマ」を求めてしまうのがヨーロッパの性

神聖ローマ帝国という、かつて地球上に存在した“国”について書こうと思います。


その前に、ヨーロッパを理解するために必要なことを少し。。

日本人のヨーロッパ史理解を困難にする、あるいは“誤解”させるものがいくつかありますがそのうちの筆頭はキリスト教でしょう。
“神”によって全てが決まる、懺悔、最期の審判に備える人々など、生活に根ざすこともさることながら、新大陸での一方的な布教、イスラムとの対立とそれが巻き起こした事象をみても、何だか日本人にとって「理解し難いもの」ではないでしょうか。

そのキリスト教と並び日本人が理解し難いもの、もしくは誤解しているもののが「ローマ帝国」だと思うのです。

ローマ帝国といえば中学校の歴史でも習いますし、映画・漫画などメディアでも繰り返し取り上げられる題材なのでお馴染みですよね。

ローマ人はお風呂が好きなんだ、みたいな(笑)

教科書的にはローマ帝国はゲルマン民族の大移動の後、476年に滅亡と習います。
その後、ヨーロッパは長い暗黒の中世に入る(蛇足ですが東洋と西洋の覇権800年交代法則というものもあります)

しかし、ローマは滅んでいないのです。
何度でも蘇ります。
ローマ再興を目指す皇帝の子孫たちが海賊と一緒に帝国の財宝を探したりはしませんが。

いやしかし、ここまで書いていてふと思いましたが、“ローマは滅んでなんかいないんだ、何度でも蘇るんだ”という信仰に近い想いはきっとヨーロッパ人のDNAに深く刻まれているような気がしてきました。

だって、神聖ローマ帝国の成り立ちは“ローマは何度でも蘇える”というぶっとび理論そのものだもの。

閑話休題。
話を端折るとこでした。

実は、476年に滅びたのは「西ローマ帝国」だけ。
「東ローマ帝国」はその後も存続、それどころか地中海に覇をとなえ再び巨大帝国を築くのです。



どういうことかというと、そもそもローマ帝国は広大すぎる領土の統治効率化のため395年に東西に分裂します。
時の皇帝が臨終に際し息子たちに分割統治するよう言い遺したのです。

西ローマは、ローマを。
東ローマは、コンスタンティノープルをそれぞれ首都にしました。

そして、コンスタンティノープルを首都に戴く東ローマはギリシャ半島に勢力を保ちながらその後も1453年にオスマントルコによって滅ぼされるまで国家として続きます。つまり、ローマ帝国は古代で滅びず1500年もの長期にわたり存在したのです。

まずもって、ローマは滅びず(古代ローマは滅んだとみることはできますが)日本の室町時代まで存在したってのがビックリですよね。


しかし、東ローマ帝国はあくまでギリシャ半島周辺を治めるにすぎない。
イタリア半島以北の蛮地、今ではフランスやドイツ、イギリスと呼ばれる西ヨーロッパ世界にはローマの威光は届かない。

ギリシャにはローマ皇帝がいる、この西ヨーロッパ世界にもローマ帝国が、皇帝が必要だ。

ある時、1人の人間が考えました。

そうだ、数百年前に滅んだ西ローマ帝国を復活させればいいのだ、と。


そうしてこの世に生を受けたのがその名も仰々しい【神聖ローマ帝国】なのです。


【リポート】第83回金沢歴活「ざっくりフランス史カペー朝について」

テロで揺れておりますがフランスって日本人からすると変わらず人気観光地の筆頭と思います。

(僕も例に漏れず訪仏、写真は夜のルーブル)

しかし案外知らないのがフランスの歴史。
だいたい、映画やメディアの影響もありジャンヌダルク(15世紀)あたりからは知ってて、絶対王政・ベルサイユ宮殿のルイ14世(17世紀)、ベルばらでも馴染みのあるフランス革命(18世紀)もまぁまぁ聞いたことある習った記憶がある、という方が大半なんですがぐっっと遡って「ジャンヌダルク以前」のフランスはどうだったのか⁇

ってことで当日はジャンヌダルク以前のフランスの歴史、「カペー朝」というそれはそれはマニアックなお話を朝からさせていただきましたました(笑)