2016年11月11日金曜日

加賀茶道を歩く!宮崎寒雉の塩屋釜編

金沢の街歩き必須アプリ、【古今金澤】を使って巡る加賀茶道。
加賀茶道ってなんじゃい、ということはひとまず置いておいて今回は「宮崎寒雉の塩屋釜編」をお送りいたします。

宮崎寒雉というのは茶の湯釜を作る釜師の名前でして、江戸時代の初期から金沢で活躍し現代まで14代を数えます。
元々は石川県穴水町の仲居という町の出身なのですが裏千家流初代の仙叟宗室に見出されて釜師としてのキャリアを積んでいきます。

この仙叟と寒雉はお茶人と釜師という関係ですが、残されている史料から窺うにそれ以上に仲の良いお茶仲間だったのではと僕は思います。

例えばこんなエピソード。

ある日、仙叟と寒雉が卯辰山(金沢のひがし茶屋街あたり)をピクニック中に仙叟がおむすびを食べようとして手がすべりおむすびがコロコロ転がっていき食べられなかったことがありました。

リアルおむすびころりんか!!(スマホのCMか!!)っと大きい声でツッコミたくなりますがまぁそんなことがありましたと。

しかしここから寒雉が粋なことをするのです。
後日、仙叟の屋敷を訪れた寒雉は、
「このあいだのおむすびを持ってきました」





2016年6月10日金曜日

明治初期の美術業界と藩閥政治

昨日の歴活にて代表の安藤が【岡倉天心】について話しておりましたが、天心が東京美術学校(現・東京藝大)を追い出されることになる「東京美術学校騒動」について補足を。

テキストはこちら


事の経緯をおさらいしますと、天心は明治22年(1887年)に開校した東京美術学校の校長に着任します。この時なんと27歳。
早熟です。
学校運営に辣腕をふるう天心ですが、その天心に突如解任を求める怪文書が届くのが明治31年(1898年)。
これは同校内の天心批判派が出したとされ、結局天心以下多数の教官がいっせいに辞表を提出する一大騒動へ発展し、天心は日本美術院を設立(現在の院展)し、在野にて美術運動を展開していくことになる。


ところで、この時期の美術家の立場には出身藩が維新時に佐幕・新政府のどちら側であったかが大きく影響しているようである。

(そもそも、美術の担い手が士族が圧倒的に多いという特徴がある)

それは絵画において顕著で、初期洋画と工部美術学校(初の公的美術教育機関)には旧佐幕派の藩の出身者が多い。
川上冬崖、高橋由一、川村清雄…(直接の幕臣)

それに引きかえ、洋画新派は藩閥雄藩の出身者が多い。
黒田清輝、和田英作、藤島武二…(薩摩藩)

実は、東京美術学校設立時には洋画コースは存在しない。設立されたのは7年後の明治29年(1896年)
教官として迎えられたのは黒田清輝と藤島武二。

あまり深入しないがこれ以降日本における洋画の普及、教育は黒田清輝を中心に展開する。
明治40年に文部省美術展覧会(現在の日展)を開設したのは黒田清輝、そして首相の西園寺公望。

日本洋画のアカデミズムはまさに藩閥勢力を権力背景として形成されていったのである。


長くなったのでまた次回。。

2016年5月12日木曜日

第92回【金沢歴活】新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術

2016/05/12
於cafe素都
文責 髙橋勇太

【新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術】

今回は絶対に観ておくべき桃山芸術と題しまして、実際に私が観てきた中でオススメの作品をご案内。




◆そもそも安土桃山時代(1573〜1615)ってどんな時代?

政治史では室町幕府滅亡(1573)から関ヶ原の合戦(1600)まで僅か27年。
文化史では豊臣氏滅亡(1615)まで、どちらにせよ半世紀にも満たない、中世から近世への変わり目。
戦国の混沌と江戸の安定の狭間。
時代の一大転換期。
下剋上の気運高まり信長や秀吉ら天下人が登場。裕福な商人も活躍と、非常にエネルギッシュな時代で芸術においては覇気と生命感に溢れる作品が大本流だがその一方で“侘び”の美意識も誕生した。
とにかく忙しい時代。

新3大・1つめは、、
❶狩野永徳【唐獅子図屏風】


どんな人?
狩野派と呼ばれる画壇の棟梁で京都で活躍、織田信長や豊臣秀吉ら天下人の御用絵師として活動し当時の画壇の頂点に君臨した。
信長〜秀吉という稀代の為政者から次から次に仕事の依頼が来すぎてその死因は一説には過労死といわれる。

作風は?
若い頃は細密画〜壮年以降はダイナミックな障壁画が多くなる。特に晩年は筆づかいが荒々しく乱暴な書きっぷりが必見。
基本的に水墨画も細密画も障壁画もなんでもござれ。
個人的には“桃山という時代の空気”をひしひしと感じられる風俗画や大画面の迫力たっぷり障壁画がオススメ。

っでこの作品の見どころは?
何と言っても、獅子がのっしのっしと歩くような豪快で生き生きとした様、迫力、【目力】のすごさ!
ぜひ獅子に睨まれてほしい一品。

新3大・2つめは、、
❷長谷川等伯【松林図屏風】

どんな人?
能登七尾出身の画家。
30代で一念発起して妻子を連れて上京。
当時、桃山画壇の寵児であった狩野永徳に真っ向勝負、永徳の死後は秀吉からの依頼で瑞雲寺の壁画を任され桃山画壇の勢力図を塗り替えた。
千利休とも懇意にし、日本的水墨画の完成ともいわれる「松林図屏風」を生み出した。

作風は?
七尾時代は繊細かつ清新な、仏画を多く手がけるが京都にのぼってからは華麗な金碧画も描く。
圧倒的な力強さの永徳に対し等伯は風や大気を描き情感豊かな水墨画様式を完成させた。

っでこの作品の見どころは?
唐獅子屏風より一回り小さいような大きさで、案外小ぶり。そして背景の紙部分も黄ばんでいたりと写真と実際には大違いなんですが、画から霧が滲み出てくるような感じは実際に見ないと分からない。幽玄な、といえばいいのかな。幽かに玄く、霧が流れてくる雰囲気、体感いただきたいですね。

新3大・最後はこちら

❸長次郎【ムキ栗】


どんな人?
現代まで一五代続く窯元樂家の祖。
千利休の美意識を反映した茶碗の作り手として知られる。
生没年不詳でその生涯は不明な点も多いが中国からの渡来系移民の子孫といわれる。

作風は?
樂焼は轆轤を使わず手で捏ね上げるため素朴な、自然な姿を残す。
同時代の茶碗と比べると長次郎は幾分小ぶりな寸法でその形はいわゆる宗易形(利休形)とよばれ色は黒とも赤とも表現できないような、土そのものの風合い。樂歴代の中でも長次郎の“色”は一線を画す。

っでこの作品の特徴は?
長次郎の茶碗って当代の樂吉左衞門さんも指摘している通り、黒なのか赤なのか醜いのか美しいのか分からない、理解できないことが魅力だと思う。

このムキ栗なんて特にそう。
すごい肌してる。
色もよう分からないけど形も凄くて、上から見ると方形と円形が重なり合っていて更に井戸のような底なしの深さを感じる。宇宙ですよ。
見るとなんとも言えない気分になりますがこれは実際に見てほしいな。


以上、新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術でした!

第92回【金沢歴活】新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術

2016/05/12
於cafe素都
文責 髙橋勇太

【新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術】

今回は絶対に観ておくべき桃山芸術と題しまして、実際に私が観てきた中でオススメの作品をご案内。




◆そもそも安土桃山時代(1573〜1615)ってどんな時代?

政治史では室町幕府滅亡(1573)から関ヶ原の合戦(1600)まで僅か27年。
文化史では豊臣氏滅亡(1615)まで、どちらにせよ半世紀にも満たない、中世から近世への変わり目。
戦国の混沌と江戸の安定の狭間。
時代の一大転換期。
下剋上の気運高まり信長や秀吉ら天下人が登場。裕福な商人も活躍と、非常にエネルギッシュな時代で芸術においては覇気と生命感に溢れる作品が大本流だがその一方で“侘び”の美意識も誕生した。
とにかく忙しい時代。

新3大・1つめは、、
❶狩野永徳【唐獅子図屏風】


どんな人?
狩野派と呼ばれる画壇の棟梁で京都で活躍、織田信長や豊臣秀吉ら天下人の御用絵師として活動し当時の画壇の頂点に君臨した。
信長〜秀吉という稀代の為政者から次から次に仕事の依頼が来すぎてその死因は一説には過労死といわれる。

作風は?
若い頃は細密画〜壮年以降はダイナミックな障壁画が多くなる。特に晩年は筆づかいが荒々しく乱暴な書きっぷりが必見。
基本的に水墨画も細密画も障壁画もなんでもござれ。
個人的には“桃山という時代の空気”をひしひしと感じられる風俗画や大画面の迫力たっぷり障壁画がオススメ。

っでこの作品の見どころは?
何と言っても、獅子がのっしのっしと歩くような豪快で生き生きとした様、迫力、【目力】のすごさ!
ぜひ獅子に睨まれてほしい一品。

新3大・2つめは、、
❷長谷川等伯【松林図屏風】

どんな人?
能登七尾出身の画家。
30代で一念発起して妻子を連れて上京。
当時、桃山画壇の寵児であった狩野永徳に真っ向勝負、永徳の死後は秀吉からの依頼で瑞雲寺の壁画を任され桃山画壇の勢力図を塗り替えた。
千利休とも懇意にし、日本的水墨画の完成ともいわれる「松林図屏風」を生み出した。

作風は?
七尾時代は繊細かつ清新な、仏画を多く手がけるが京都にのぼってからは華麗な金碧画も描く。
圧倒的な力強さの永徳に対し等伯は風や大気を描き情感豊かな水墨画様式を完成させた。

っでこの作品の見どころは?
唐獅子屏風より一回り小さいような大きさで、案外小ぶり。そして背景の紙部分も黄ばんでいたりと写真と実際には大違いなんですが、画から霧が滲み出てくるような感じは実際に見ないと分からない。幽玄な、といえばいいのかな。幽かに玄く、霧が流れてくる雰囲気、体感いただきたいですね。

新3大・最後はこちら

❸長次郎【ムキ栗】


どんな人?
現代まで一五代続く窯元樂家の祖。
千利休の美意識を反映した茶碗の作り手として知られる。
生没年不詳でその生涯は不明な点も多いが中国からの渡来系移民の子孫といわれる。

作風は?
樂焼は轆轤を使わず手で捏ね上げるため素朴な、自然な姿を残す。
同時代の茶碗と比べると長次郎は幾分小ぶりな寸法でその形はいわゆる宗易形(利休形)とよばれ色は黒とも赤とも表現できないような、土そのものの風合い。樂歴代の中でも長次郎の“色”は一線を画す。

っでこの作品の特徴は?
長次郎の茶碗って当代の樂吉左衞門さんも指摘している通り、黒なのか赤なのか醜いのか美しいのか分からない、理解できないことが魅力だと思う。

このムキ栗なんて特にそう。
すごい肌してる。
色もよう分からないけど形も凄くて、上から見ると方形と円形が重なり合っていて更に井戸のような底なしの深さを感じる。宇宙ですよ。
見るとなんとも言えない気分になりますがこれは実際に見てほしいな。


以上、新3大・絶対に観ておくべき桃山芸術でした!

2016年4月14日木曜日

リポート【第88回金沢歴活】加賀蒔絵って何⁇


今金沢においてにわかに話題!
なのか!?
か加賀蒔絵について今朝はお話。
といっても丁度1年前にもお話した【漆聖・松田権六】のpart2的な内容。

(松田権六さん)

加賀蒔絵ってのはそもそも江戸時代の加賀藩がとった文化政策に端を発しまして、金沢という地は自然発生的にもともと漆が盛んに行われていたわけではない、というのが特徴かな。
要は、侍文化に適した漆が発展しました。

(これは五十嵐道甫)

っでこれを明治維新以降、発展させた第一人者が松田権六さんなのです。

この人は圧倒的努力に基づく漆の強化人間というかスーパーマンで、藝大の卒業制作では前代未聞の100点がつけられ作品は藝大が買い上げ、25歳の頃にはたまたまアパートに遊びに来た友達が部屋に転がっていた未完成の作品を勝手に公募展に出品して入選、大金を得るわ、輸出用の万年筆をプロデュースすればヨーロッパのダンヒルからぜひともパーティに来てくれと言われるわ、戦後は文化庁の国宝を決める委員会もつとめいわゆる人間国宝制度まで作っちゃうという、何だか書いていてよく分からなくなるようなお方です。


そんか松田権六さんで1番好きなのはこれですね。

写真がイマイチすぎますが、
【蒔絵槇に四十雀模様二段卓】
東京国立近代美術館に所蔵で石川ではなかなか観れませんが、玄から金に次第に変化していく卓がなんとも綺麗なんですよ。

松田権六さんはお話もお上手だったようで、著作も読んでいて面白いのでオススメです。
お世話になってる人から受けたくない仕事が依頼された時の断り方や、大企業に藝術をプレゼンするやり方まで多種多様。
『うるしのはなし』と『うるしのつや』があるのですが『うるしのつや』の方がエピソード豊富でオススメですね♪

2016年4月12日火曜日

「金沢らしさ、の余談。米丸物語について」

本を読むのが好きという、月並みすぎる趣味がありますyutaです。
大学生の頃から古本屋巡りが好きなんですが今日はこの本を買い求めました。
それがこちら

米丸物語。
金沢の地域史というか、米丸という金沢市の一地域のお話。

米丸と書いて「よねまる」と読みます。
金沢南西部の地域でして、何を隠そう僕の実家があるところ。

米丸なんて地名は我が母校米丸小学校以外で出会ってないから『米丸物語』というタイトルを見て「まさか!!!」と思いながらページをめくるとやはりそうで、「我が米丸校下(これは金沢弁)の話ではないか。。」と即買い。

地名、人名がともかくローカル極まりないので「お、この苗字は同級生の家だな」とかふむふむしながら読んだんですけど、ふと「第四章 学校教育」の次の文章
「…藩政時代、金沢から岸村某という人が来て、私塾が…」

藩政時代、金沢から米丸村に派遣された人が私塾を開き、、、むむ。「金沢から」⁇

この米丸村は金沢ではないのかい⁇
いま現在は思いっきり金沢市内ですが。。

そうなのです、僕の生まれ育った米丸村もとい米丸校下はもともと金沢ではないのですよ。

金沢市に編入されたのも昭和10年になってから。
車を走らせれば金沢城まで15分ほど、距離にして6キロ程度ですがここは元々「金沢ではない」のですよ。
石川郡米丸村です。

そもそも、廃藩置県で金沢県が置かれた時の金沢市はほとんど旧城下町の範囲内だけ。
10.4キロ㎡のみ。
そりゃあ旧市街に暮らす方々と郊外に住む人間の金沢に対する思い入れの深さと長さに差があるのも致し方ないかな、です。

その後、合併を繰り返していき市の範囲は米丸村を合併した時には51.5キロ㎡に。
いま現在は467.7キロ㎡です(面積に関してはすべて出典元Wikipedia)

明治になって「金沢市」ができるときにどういう経緯があったかは勉強不足ですが、旧市街以外をひとまず金沢としなかったということは、中心部の人のプライドを僕は感じちゃうんだよなぁ。


2016年4月11日月曜日

金沢を観光客視点で捉えつつもそこに住んでいるという矛盾

日曜の夜なんで、第3回目はギアを上げて書こうと思います。

僕が書こうとしていることってつまりは【金沢人にしか書けないいびつな金沢愛】なんですよ。



この『金沢らしさとは何か?』にも書かれている「金沢の人は本当に金沢が好きだ」という部分、本当にその通りだと思うんです。
あーだこーだ言って結局僕は金沢の事が大好きなんですよね。

ただ、それは生まれ故郷だから好きっていう問答無用の事実だからなんですよ。
自分の肉親のことを放っておけないのと同じです。理由なんてないんです、だって自分の親なんだもん。

だから僕が金沢の事が好きっていうことは【理屈ではなく生まれ故郷だから】が殆どなんです。
金沢の奥ゆかしさ、伝統工芸、茶道やお能、お菓子や料理、、四季折々の風景だとか城下町だとか金沢の美辞麗句のフルコースがあるから、それを知ってるから好きとかではないんです。


だけど、金沢というモノに対してどうしても埋められない距離も僕にはあるんですよね。
僕は両親が金沢の生まれではないからネイティヴなリアル金沢人でない。
まぁ言うても、両親とも石川県人、父は口能登の羽咋市、母は加賀藩3代利常ゆかりの小松市。
(ついでにいうと奥さんは奥能登)

同じ石川県やん、と思うかもですが、金沢市内に親戚は1人もいない、お盆だって新盆でなくて旧盆だし金沢市民なのにお墓まいりでキリコは買ったことありません。
小さい頃は金沢市内の神社にお参りに行くことも殆どなく、文化的なことでいえば母の実家の小松の方が僕の原体験。

百万石祭りよりもお旅まつりの方が、尾山神社よりも安宅住吉神社や那谷寺の方が、森八や諸江屋などの和菓子屋よりも松葉屋の方がシンパシーを感じてしまう。

上に羅列した【金沢の美辞麗句のフルコース】を
“覚えた”
のは大学入学後の二十歳くらいから。

思春期を過ぎて、大学入学後という、ある程度開けた視界の中で初めて捉えた“金沢”。
それは例えるならば【観光客の視点】と同じで客観的に、消費の対象として金沢を視るんです。

へぇ、金沢ってこんな街なんだ、すごいねぇ、行ってみようか、のような。
金沢は伝統工芸や伝統文化が盛んな街なんだってねぇ、知ってる?のような。。

金沢文化を、肉親など近しい人からではなく雑誌などのメディアや大学の講義で知ったので、金沢文化に対して粘着的な付き合いの深さがないんです。


それが、金沢をやや冷ややかに見てしまう原因な気もするのですが、何だか長くなってきたのでまた次回♪

2016年4月9日土曜日

金沢らしさはあると言わざるをえないけどもう少し自分の話

金沢らしさなんて、あるのか⁇
結論からいうとそういうものは「あると言わざるをえない」と僕は思っています。

それは、お茶なり美術なりを抜きにしと思うに至ったのですが。。。




その前に。
昨日のブログにも書きましたが、金沢って芸術を生産、消費している人間とそうでない人間の差が激しいと思うんですよね。

いや、書いていて「それは日本中いや世界中どの地域でも同じではないか⁇」とも思うのですが【金沢らしさ】を語るとき排他的な思想・言動をなされる方って【旧市街】の人が殆どなんですよ。
(結局、これもどの地域でも同じかもしれないけどそうだとしたら金沢でも御多分に洩れずそうだということです)



そして金沢で芸術を生産、消費している人って旧市街の人が結構な割合を占めると思う、統計をとりようがないけど。

旧市街ってのは元々武士が住んでいた地域と思っていただければいいでしょうか。
要は、お城の近くです。
浅野川と犀川の間というか。
旧市街金沢人の方に言わすと、「線路から港側は小さいころ金沢じゃないと思ってた」って発言も1人や2人じゃありません。


北陸新幹線が開通して、「近江町市場が金沢の台所じゃなくなった」って発言されるのはまず間違いなく旧市街の方々です。

郊外育ちの自分に言わすと僕の家庭で近江町市場が台所だった瞬間なんて一瞬たりともありません。

駐車料金かかりすぎる中心部にいきやしないので。
台所ということで言うとマルエーかニュー三久でしょうか(超ローカルトークです、すいません)


そんでもって、僕の家庭にはお茶もお花も謡もましてや着物も無くて、ステロタイプの【金沢】を感じたことは大学入るまでなかったですね。

これは何も僻んで言ってるわけでは無く、僕の通っていた小学校では殆どの家庭がそうだったと思うな。

とはいえ、ここまで書いていて僕が【ステロタイプの金沢】を感じれない、いまだに共感できない理由は家庭環境にもあるような気がします。。
その辺はまた次回に♪

(読んでる人いるのか分からないので殆ど自分の忘備録ですが)

2016年4月8日金曜日

金沢らしさなんてものは、あるのだろうか

開業から1年経ちましたが変わらず北陸新幹線で賑わう金沢にて茶道を嗜む31歳、ファッション販売店長のyutaです。

昨日、こちらの本を買い求めました。

金沢市前市長の山出保さんと有識者によるトークセッションを書き起こしたもの。

「金沢らしさとは何か」


私、捻くれ者ではありますが金沢愛はなかなかのものだと自負しております。某信長の野望では金沢市を治めているのが大名ではなくお寺さんだったということに凹んだ思春期ももっております。

まぁ、信長の野望で前田家が使えない!と嘆くのはゲーマーあるあるとして、ともかく「金沢らしさ」について、途切れ途切れになりながらも金沢で10年ほどお茶を習って、イベントを主催してきた人間なりの視点で書きたく思います。


が、その前に自分のことを少しだけ。
いや、自分のことというか金沢市民の温度差について書いてよろしいでしょうか。


「金沢らしさ」との僕の“初めての遭遇”は二十歳の頃、金沢21世紀美術館にて行われていた【現代美術展】でアルバイトをしていたことです。
現代美術展とは終戦後間もない頃から続く金沢においてとても歴史のある公募展で、人間国宝や芸術院会員の先生方からアマチュア作家まで幅広く応募する、地方ではなかなかの規模の公募展だと思います。
(っということを今はつらつらと書けますが当時は【現代美術展】も【人間国宝】も【芸術院会員】もよく分かっておりませんでした)

この公募展の搬入・展示のアルバイトをしていたのですが、なかなかのカルチャーショックを受けましたよね。

搬入は基本作家ご本人がおいでるのですが(大家除く)次から次にひっきりなしに搬入にくるのですよ。
えーーー!
金沢ってこんなに作家と呼ばれる人が、モノを制作してる人がいるの⁇しかも全部(失礼ながら)なかなかのクオリティだよ⁇と。


何となく金沢、石川県は「美術や芸術が盛ん」(美術と芸術の違いもこの時は知らない)と聞いてはいたけどそれを肌身に感じたのがこの時でした。

それと同時に、金沢において芸術を生産、消費している層とそうでない層との間に無茶苦茶大きな溝というか隔たりがあるなぁとも直感的に思ったものです。



続く

2016年4月7日木曜日

ローマの歴史を知らねばナポレオンのイノベーションは理解できない

西暦800年、12月25日、ミサが執り行われるローマ、サン・ピエトロ大聖堂。
レオ3世はシャルルマーニュに対し皇帝戴冠式を断行した。

【西ローマ帝国の復活】である。

フランスとドイツという、日本と朝鮮半島のような愛憎入り混じる友好関係の両国の歴史は共にこの復活西ローマ帝国を起源にもつ。
(正確にはフランスとドイツ以外の現西ヨーロッパの殆どの国だが)

なので、この復活西ローマ帝国が汎ヨーロッパ主義というか現在のEUの起源であるとする考えもあるようだ。

スペインの著名な建築家、アントニオ・ガウディは「自分はスペインの中でもローマに近い都市で生まれ育った」と自分の出自を誇ったエピソードがあるらしい。


話を端折って、16世紀に至っても「神聖ローマ帝国」と名乗って“ローマ”の称号にこだわるヨーロッパ人の心情は東アジアの島国育ちにはなかなかに理解しがたい。

このローマにこだわる心情とは要するに
「ヨーロッパを支配するのはローマ皇帝を戴くローマでなくてはならない」
という問答無用の論理だろう。

この論理はなかなかに強固で実はヨーロッパの歴史において皇帝という人間は、古代ローマ帝国からナポレオン革命にいたる1500年間、どの時代にも必ず“2人しか”存在してらならないことになっている。

1人は東ローマ皇帝、つまりピザンツ帝国皇帝。これはピザンツ帝国滅亡後ロシアに帝位が渡りロシアにて皇帝位は継承され20世紀まで続く。
そしてもう1人は西ローマ帝国皇帝、これはシャルルマーニュののち、紆余曲折して神聖ローマ帝国皇帝として帝位を紡ぎ、時代がくだると主にハプスブルク家が皇帝を担う。


(これはマリーアントワネットの母親)


フランス革命で断頭台の露となったマリーアントワネットの父親は神聖ローマ帝国皇帝だが、拡大解釈な表現をすればマリーアントワネットは西ローマ帝国皇帝の娘なのだともいえる。


フランス革命の直前までローマ皇帝が生存していたというのは意外だと思う。
そしてそれは常に2人。
皇帝に憧れた実力者が勝手に名乗ることは憚られた。フランス国王の中には皇帝に憧れハプスブルク家からなんとか皇帝位を奪えないかを本気で画策した王もいたくらいだ。


ローマというものは東西があり、教会も東西があり、皇帝も東西にいる。
この考えが中世ヨーロッパ世界の大原則で、近世いたってかなり薄れたがまだ建前上の常識として歴史的事実として機能していた。


これをまったく無視し、勝手に自ら皇帝を名乗ったナポレオンという男がいかにエポックメイキングだったのかはいつ考えても興味深い。

2016年4月5日火曜日

起業家マインドが西ローマ帝国を復活させた

西暦476年に滅びた西ローマ帝国の復活という、破天荒なことを夢想し、結果として実現させたのは教皇レオ3世という、何よりも自分の保身が大切という男である。

このレオ3世の欲望が350年近く埋葬されていた「西ローマ皇帝」を現世に召還しイタリア含めイタリア以北の、当時は蛮地とされた西ヨーロッパに光をあてることとなる。

自堕落な生活のために教皇位を追われそうになったこの男が望んだこと、それさイマイチ権威に欠けともすれば分裂の危機にある「ローマ教皇」という立場の強化であった。


少し話がややこしいが、東ローマ帝国にはローマ教皇とは“別に”「コンスタンティノープル総大主教」がいた。
この東ローマ帝国のキリスト教が後にギリシア正教・東方正教会となり主に東ヨーロッパ、ロシアに伝わり現在に至る。

要約して言うと、東ローマ帝国には東ローマ皇帝がおり、コンスタンティノープル大主教が。
西ローマ帝国には西ローマ皇帝がおりローマ教皇が存在した、ということ。

そして、西ローマ帝国が滅び1人残されたローマ教皇の権威というのは、きわめて心許ないものだった。

そうだから、ローマ教皇であるレオ3世はローマ教皇という立場の強化を望んだのである。



教皇が目をつけたのが当時飛ぶ鳥を落とす勢いのフランク王国の国王、シャルルマーニュである。
シャルルマーニュの王国は現在のドイツからフランス、スペインやイタリアにまたがる大王国で、実質として西ローマ帝国とほぼ同範囲。


この、今や東ローマ皇帝よりも領土の上では古代ローマ帝国を彷彿とさせるフランク人の王はローマ皇帝に相応しいのではないか?
よもや異論を言うものはおるまい。
そしてその皇帝の任命を自分が行えば自分の、ローマ教皇の権威は高まるのではないか?

だがいきなりそんなことをすれば、東ローマ皇帝およびコンスタンティノープル大主教は黙っていないだろう。。。

どうする?



レオ3世はここまで考えて結局実力行使に打ってでた。
東の了解を得ぬままに強引に教皇戴冠式を断行し、一方的に「西ローマ帝国の復活」を宣言したのである。
あとはどうにでもなれ、である。

結果としてこのことによりローマ教皇は皇帝選任権を有することになり中世を通し絶大な世俗権力を握っていくことになる。

自分の権威拡大のためとはいえ、
数百年前に滅んだ国を復活させ、時の権力者にその国の皇帝を任命させる、任命権は自分がもつ、をゼロから作ったレオ3世は今日風にいうとなかなかイノベーティブな人間なのかもしれない。




2016年4月1日金曜日

「ローマ」を求めてしまうのがヨーロッパの性

神聖ローマ帝国という、かつて地球上に存在した“国”について書こうと思います。


その前に、ヨーロッパを理解するために必要なことを少し。。

日本人のヨーロッパ史理解を困難にする、あるいは“誤解”させるものがいくつかありますがそのうちの筆頭はキリスト教でしょう。
“神”によって全てが決まる、懺悔、最期の審判に備える人々など、生活に根ざすこともさることながら、新大陸での一方的な布教、イスラムとの対立とそれが巻き起こした事象をみても、何だか日本人にとって「理解し難いもの」ではないでしょうか。

そのキリスト教と並び日本人が理解し難いもの、もしくは誤解しているもののが「ローマ帝国」だと思うのです。

ローマ帝国といえば中学校の歴史でも習いますし、映画・漫画などメディアでも繰り返し取り上げられる題材なのでお馴染みですよね。

ローマ人はお風呂が好きなんだ、みたいな(笑)

教科書的にはローマ帝国はゲルマン民族の大移動の後、476年に滅亡と習います。
その後、ヨーロッパは長い暗黒の中世に入る(蛇足ですが東洋と西洋の覇権800年交代法則というものもあります)

しかし、ローマは滅んでいないのです。
何度でも蘇ります。
ローマ再興を目指す皇帝の子孫たちが海賊と一緒に帝国の財宝を探したりはしませんが。

いやしかし、ここまで書いていてふと思いましたが、“ローマは滅んでなんかいないんだ、何度でも蘇るんだ”という信仰に近い想いはきっとヨーロッパ人のDNAに深く刻まれているような気がしてきました。

だって、神聖ローマ帝国の成り立ちは“ローマは何度でも蘇える”というぶっとび理論そのものだもの。

閑話休題。
話を端折るとこでした。

実は、476年に滅びたのは「西ローマ帝国」だけ。
「東ローマ帝国」はその後も存続、それどころか地中海に覇をとなえ再び巨大帝国を築くのです。



どういうことかというと、そもそもローマ帝国は広大すぎる領土の統治効率化のため395年に東西に分裂します。
時の皇帝が臨終に際し息子たちに分割統治するよう言い遺したのです。

西ローマは、ローマを。
東ローマは、コンスタンティノープルをそれぞれ首都にしました。

そして、コンスタンティノープルを首都に戴く東ローマはギリシャ半島に勢力を保ちながらその後も1453年にオスマントルコによって滅ぼされるまで国家として続きます。つまり、ローマ帝国は古代で滅びず1500年もの長期にわたり存在したのです。

まずもって、ローマは滅びず(古代ローマは滅んだとみることはできますが)日本の室町時代まで存在したってのがビックリですよね。


しかし、東ローマ帝国はあくまでギリシャ半島周辺を治めるにすぎない。
イタリア半島以北の蛮地、今ではフランスやドイツ、イギリスと呼ばれる西ヨーロッパ世界にはローマの威光は届かない。

ギリシャにはローマ皇帝がいる、この西ヨーロッパ世界にもローマ帝国が、皇帝が必要だ。

ある時、1人の人間が考えました。

そうだ、数百年前に滅んだ西ローマ帝国を復活させればいいのだ、と。


そうしてこの世に生を受けたのがその名も仰々しい【神聖ローマ帝国】なのです。


【リポート】第83回金沢歴活「ざっくりフランス史カペー朝について」

テロで揺れておりますがフランスって日本人からすると変わらず人気観光地の筆頭と思います。

(僕も例に漏れず訪仏、写真は夜のルーブル)

しかし案外知らないのがフランスの歴史。
だいたい、映画やメディアの影響もありジャンヌダルク(15世紀)あたりからは知ってて、絶対王政・ベルサイユ宮殿のルイ14世(17世紀)、ベルばらでも馴染みのあるフランス革命(18世紀)もまぁまぁ聞いたことある習った記憶がある、という方が大半なんですがぐっっと遡って「ジャンヌダルク以前」のフランスはどうだったのか⁇

ってことで当日はジャンヌダルク以前のフランスの歴史、「カペー朝」というそれはそれはマニアックなお話を朝からさせていただきましたました(笑)




2016年3月31日木曜日

【リポート】第85回金沢歴活「今だからこそ知りたいざっくりベルギーの歴史」


3月31日、年度末の最後の最後という日にも関わらず、朝から沢山の方にきていただきました金沢歴活。
今朝のテーマは「今だからこそ知りたいざっくりベルギーの歴史」と題しましてテロに揺れるベルギーについてお話してまいりました♪

ベルギーっていうとチョコにワッフル、ビールと食べ物のイメージ強い!のですがそれはそれは複雑な国家成り立ちの歴史を背負っているのです。。

まず、言語からいくとベルギー語ってない!オランダ語とフランス語が公用語!
そして正式名称はベルギー王国、ですので国王を戴く君主政!
そーいえば、フランダースの犬の舞台もベルギーですよね!?っと案外興味をそそる国なのです。

ちなみに。
ダッフルコートのダッフルとはベルギーの都市の名前です♪

なんてウンチクもふんだんにお話したベルギーの歴史ですが、予備知識がなければあんまり理解しにくい回になったなぁと反省。。

ベルギーはフランス、イギリス、ドイツにオーストリア、オランダとの関係性 が強いから周辺知識もフォローしないといけなくて。。。
もっと分かりやすくお話することが課題です(>_<)

2016年3月26日土曜日

リポート【ゼフィランサスの眠るころ】

お茶会に限らずだけど、なにかの名前を考えることが好きです。
命名する、ていう何もなかったものに生命を吹き込む行為は死語かもしれませんが非常にクリエイティブな気もして。


っで、今回のお茶会のテーマ「ゼフィランサスの眠るころ」である。
前回の「早春のリャナンシー」、前々回の「空しい夜と烈火の昼の切ない想い」とに続くナルシスト度がたっぷり入っていけ好かないけど気になって仕方ないタイトルに仕上がっております。

我ながら、まるでライトノベルのタイトルのようなこのタイトル、なかなかの出来栄えと自負しております。

席中では種明かししましたが、ゼフィランサスとはヒガンバナ科の白い花で花言葉は「清純」。
ちょうど、二日前に彼岸の明けを迎えたばかりで冬の別れと春の訪れを隠れテーマにしたかったんです。

遠州流では彼岸を境に微妙〜〜にお点前も変わりますし。

やはり季節感は何かしら取り入れたい欲求にかられます。
だから、お菓子も追銘「霜まよふ」にしたり。

お菓子の説明はまた長くなるので割愛しますが。。。


ですので、彼岸が明けたという意味でゼフィランサスの眠るころ、と命名したのですね。
ゼフィランサスは夏から秋にかけて咲くのでヒガンバナ科である、という以外は季節感もへったくれもありませんが。。。

ちなみに、本当の本当の元ネタは機動戦士ガンダムの同名の機体からです笑
『0083』、好きなんですよねぇ。

2016年2月18日木曜日

レポート【金沢歴活】「ざっくり西南戦争〜幕末パラダイムシフトの総仕上げ 〜」

“雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂”

田原坂と書いて何て読むのかわかる方は歴史好きか九州の方でしょうか。

今朝の金沢暦活は西南戦争について、価値観の変化、パラダイムシフトという観点からお話してまいりました(^^)

見づらいですが窓には司馬遼太郎さんの『翔ぶが如く』全巻と岡田斗司夫さんの『評価経済社会』を並べるという組み合わせ。

参加者のお一人は西南戦争についてとてもお詳しく合間合間に小話を挟んでいただきました。



明治維新が価値観の一大転換のように思われがちですが西南戦争が終わるでは激動でしてその間は歴史における火事場泥棒ができる期間であり歴史においてそのような期間はしばしば起こるのです。

個人的に、西南戦争をもって幕末が終わり、価値観の変化・動揺は安定期に入り新しい時代に入っていったと思います(^^)





2016年1月31日日曜日

金沢歴活美術史特講「長次郎」

ヘウゲものや利休にたずねよで知名度が一気に上昇、今日は樂家の祖長次郎についてです。


①どんな人?
現代まで一五代続く窯元樂家の祖。
千利休の美意識を反映した茶碗の作り手として知られる。
生没年不詳でその生涯は不明な点も多いが中国からの渡来系移民の子孫といわれる。
②時代は?
安土桃山時代(1573〜1615)
③どんな時代?
室町幕府が終焉し、既存の価値観から解放されたような自由主義の時代。秀吉が最下層から天下人になったように、利休が魚屋の主人から時代を代表する美の体現者になったように、実力があればのし上がることができた。芸術においても豪放な、自由闊達な破格の表現が本流。しかし傍流ともいうべき侘びの美意識も確かに芽生えた、とにかく忙しい時代。
④作品の特徴は?
樂焼は轆轤を使わず手で捏ね上げるため素朴な、自然な姿を残す。
同時代の茶碗と比べると長次郎は幾分小ぶりな寸法でその形はいわゆる宗易形(利休形)とよばれ色は黒とも赤とも表現できないような、土そのものの風合い。樂歴代の中でも長次郎の“色”は一線を画す。
⑤代表作は?
「無一物」

「大黒」

「ムキ栗」


金沢歴活美術史特講「高橋由一」

1828〜1894

①どんな人?

近代洋画の開拓者。
下野国佐野藩の出。つまりは武士階級の出であり同時代の洋画家、黒田清輝が薩摩藩出身のエリートならば由一は泥臭く目的を達成しようとした雑草魂の男である。
35歳で洋画を志し、41歳の時に明治維新を迎える。
維新後は洋画拡張へ奔走。

②時代は?
幕末〜明治

③どんな時代?
明治維新後の日本は価値観の大変動。
廃仏棄釈にみられるように古来のものがかえりみられず、西洋の文化がもてはやされた。
美術の世界でも(というか“美術”もいう概念と言葉が生まれたのもこの時代)西洋文明の輸入として油絵の具を用いる洋画も普及していく。

④作品の特徴は?
“リアルのようでリアルでない”、“綺麗なようで綺麗ではない”、だけど見ずにはいられない強烈な実存感が由一の特徴。土着的というか粘着質的に対象を描く。


⑤代表作は?
「花魁」

「鮭」

金沢歴活美術史特講「本阿弥光悦」

ヘウゲものやバガボンドにも登場していてサブカル的にも著名人、去年は琳派400年ということでも大忙しだった本阿弥光悦の登場です。


①どんな人?
刀剣の鑑定(めきき)、浄拭(ぬぐい)を家業とする室町時代からの京都の上層町衆の出。父の代から前田利家と関係が深く光悦も金沢に訪れている。
茶の湯は古田織部に師事。
絵師の俵屋宗達を指導したことでもしられ“琳派の祖”とも言われる。
筆を持てば能筆(寛永の三筆)、茶碗を作らせれば国宝級、蒔絵をやらせても斬新なデザインと、なんでもござれすぎてよく分からない人。

②時代は?
安土桃山時代(1573〜1615)
寛永期(1615〜44)

③どんな時代?
大坂の陣を経ていよいよ徳川幕藩体制がスタート。日本は長く続いた戦国時代が終わりようやく安定の時代へ。
安土桃山の破格・豪放を良しとする美意識から調和を重んじる美意識へ変化し、また王朝文化への回顧が進んだ。

④作品の特徴は?
書、漆芸、陶芸、宗達への下絵指導などあまりに多才すぎて特徴を一概に語ることは難しい。。
陶芸に限っていえば平仮名を想起させるような滑らかなフォルム、ふっくらとしたふくらみが特徴。箆削りも特徴で口縁の反り上がりが見所。

⑤代表作は?
乙御前

舟橋蒔絵硯箱


金沢歴活美術史特講「狩野永徳」

狩野永徳っていうとテレビゲーム「太閤立志伝」の印象がいまだに根強い金沢歴活高橋です。

今日の主役、狩野永徳はざっとこんな感じです、ご覧あれ。

生没年
1543〜1590

①どんな人?
狩野派と呼ばれる画壇の棟梁で京都で活躍、織田信長や豊臣秀吉ら天下人の御用絵師として活動し当時の画壇の頂点に君臨した。
信長〜秀吉という稀代の為政者から次から次に仕事の依頼が来すぎてその死因は一説には過労死といわれる。

②時代は?
安土桃山時代(1573〜1615)

③どんな時代?
歴史学的にいうと、中世から近世への変わり目。時代の一大転換期。下剋上の気運高まり信長や秀吉ら天下人が登場。裕福な商人も活躍と、非常にエネルギッシュな時代で芸術においては覇気と生命感に溢れる作品が大本流だがその一方で“侘び”の美意識も誕生した。
とにかく忙しい時代。

④作品の特徴は?
若い頃は細密画〜壮年以降はダイナミックな障壁画が多くなる。特に晩年は筆づかいが荒々しく乱暴な書きっぷりが必見。
基本的に水墨画も細密画も障壁画もなんでもござれ。
個人的には“桃山という時代の空気”をひしひしと感じられる風俗画や大画面の迫力たっぷり障壁画がオススメ。


⑤代表作は?
「洛中洛外図屏風(国宝)」
「唐獅子図屏風」
「檜図屏風(国宝)」

なんといっても永徳は唐獅子図屏風がオススメです。
ぜひ生でご覧になられてください。

2016年1月29日金曜日

金沢歴活美術史特講「伊藤若冲②」

若冲は生前から京都画壇では評価を受けており、『平安人物志』では池大雅、与謝蕪村ら文人画家を抑えて人気絵師2位を獲得。この時53歳。


若冲の特徴といえば鮮やかな色彩を駆使しながらも対象を執拗なまで克明に描き反復させる絵画世界には、写生を超越した幻想性が漂う。。。とよく言われます。
またいわく、まさしく若冲の絵画は「シュルレアリスム」であると。

シュルレアリスムというのは第一次世界大戦後のヨーロッパで広範に展開された芸術運動で精神世界、夢や内面のイメージを描くことに特徴があります。


確かに、若冲の絵は全体として独特な雰囲気で、鶏もリアルなようでリアルでない、“若冲の世界”を表している気がします。

まぁ、そんな難しいこと言わずにセンスで感じればいいじゃない!といいたいのですが。

個人的若冲の見どころは以下の通り。
①色彩の鮮やかさ、美しさ
②モチーフの面白さ可愛らしさ(野菜や仔犬ちゃんなど)
③若冲の視点で描かれている仏教世界

若冲は当時でも高価だった画材をふんだんにつかっており色彩がとても鮮やかでそのため保存状態が良い。八百屋のオーナーだぅたこともあり野菜モチーフのものを多く残していることも特徴。また、熱心な仏教徒だったので基本的に仏教画が多いのです。野菜の涅槃図なんかもあったりします笑

その辺りを注意して見ていただくと楽しいかも♪




2016年1月28日木曜日

レポート 歴活的全県めぐり“島根県編”

12月よりスタートし、じわじわと人気静かな人気を獲得している「歴活的全県めぐり」。
兵庫県、滋賀県、群馬県に引き続き今日は島根県編をお話してきました(^^)

島根は北陸からはなかなか行きにくく(電車だと7時間!)あまり金沢人からすると馴染みが薄い土地なのですが高橋は今まで3度訪れています。

(なぜか綺麗に4年ごとに。。)

昨年末には姉の結婚式が出雲大社にて執り行われたばかりなので、その時の観光ガイドを片手にお話するという、とてもゆるい感じ(笑)でスタート♪

島根は古事記の舞台として神社がとても多く、縁結びの聖地ということで、どこの神社に行っても驚異の女性率の高さ!

恋愛に効きそうなのは出雲大社はもちろん八重垣神社でしょうか。
変わり種では縁切り神社なんてのもあります。腐れ縁切りたい方も出雲行かれてください。

県庁所在地の松江は金沢と同じく茶の湯が盛んな城下町で、近世に喫茶文化が盛んな地域はカフェが多いというのが持論なのですが島根にもオシャレカフェ多いのです。

そして。庭園が有名な足立美術館は高橋が訪れた美術館のなかで屈指の商売上手な美術館でした♪




金沢歴活美術史特講【伊藤若冲】

◼︎伊藤若冲(1716〜1800)

知識があればもっと美術館が楽しくなる、金沢歴活副代表の高橋(ジェントル)です。

今日は伊藤若冲についてお話します。

2016年の4月22日より東京都美術館にて生誕300年を祝い「若冲展」が開催されることもあり、今年は年明け早々若冲に注目が集まることが予想されます。

そういうわけで、我らが金沢歴活もいち早く昨年末に伊藤若冲をとりあげたのですがそのまとめを本ブログでも。
(↓その時の模様はこちら)

伊藤若冲といえば高橋世代だと宇多田ヒカルさんのSAKURAドロップスのPVで使われていたことが記憶に残っていますし、ちょうど大学4年生くらい、2006年前後で1度“若冲ブーム”を経験しているので「あぁ、若冲か、懐かしいな」というのが正直なところです。

わざわざ若冲を観るためだけに名古屋まで高速バスで行ったなぁ。


それで、改めて若冲について語りますと京都・錦の青物問屋〈桝屋〉の4代目。
まぁ八百屋のオーナーってとこでしょうか。
関西人風にいうといわゆる“ええ氏のボンボン”で裕福な町人階級の跡取り長男として生をうけます。

はじめ狩野派に学ぶも不満を覚える。
狩野派とは狩野永徳に知られる一大画工集団ですが、この時代、絵を志すものはだいたい狩野派を学んでいます。(尾形光琳も)
相国寺の大典顕常に親しみ、その秘蔵の中国古画や明清画から多くを学ぶ。
40歳で次弟に家業を譲り隠居、本格的に絵師としての人生を歩みます。

今風にいうと40で早々と親から引き継いだ家業をリタイアしたということで、なかなかの一大決心。

リタイア後の若冲はいよいよ後世に残る作品を産み出していくのですがそれはまた次回♪



2016年1月26日火曜日

モテる女性

仕事柄、人間観察が趣味です。
女性全般、20代〜30代男子がメインです。

客観的に俯瞰して観てみると“こういう人はだいたいこういう行動をとるんだな”とか“表情の作り方やボディーランゲージが上手いなぁ”などと分かってくるものです。

それで、今日話題にあがったのが「モテる女性とモテない女性」。

普遍的なテーマですよね笑

モテる=異性から高い評価を得るということは容姿含め複合的な要素が必要ですが「男性が喜びそうな言葉や顔をするのが本能的に得意な女性」って存在すると思います。
男は非常に単純ですのでポイントをしぼってこういう言葉を使うとモテるというものが確かにあります。

それは何か?
非常に簡単なモテるマジカルワードです。
「さすが!」
「知らなかった!」
「すごい!」
「◯◯さんみたいな人、はじめて」
です。
とにかく男の自尊心、ジャイアン心をくすぐればまず間違いなく悪い印象はもたれません。

あまりやりすぎると同性を敵にまわすかもしれませんが。。。



2016年1月25日月曜日

金沢歴活「唐物の文化史」


◼︎「唐物」とは⁇
唐物とは近世までの「舶来品」を指す言葉でして、時代によっては南蛮物や阿蘭陀物も含めて唐物と総称します。
言葉の起源は平安時代以降で、初出は史料の上では大同三年(808年)。
唐=中国王朝の【唐】だが朝鮮半島や渤海からの伝来品、それに似せて作られた国産の品物も唐物と当時いわれました。

今回の歴活では特に室町時代にフォーカスしてお伝えしたのですが、室町の唐物はなかなか奥が深いのです。
平安、鎌倉時代までは権力者の威信財(ステイタスシンボル)だった唐物が足利将軍家の文化政策により、等級づけされ、飾り方のhow-toまで制定され、唐物はどんどんと高騰していきます。

この、唐物を等級づけして新たな市場を形成していく様はまるで「室町資本主義」とでもよぶべき社会でなかなかに興味深いのです。


例えば99貫だったお茶道具が転売の度に500貫→1000貫と値上がりし最終的には大和国(奈良県)の統治権と引き替えになるなんてまさに「室町資本主義」だと思う。

そしてこの、足利将軍家と織田信長が作った室町資本主義を瓦解させたのが利休と秀吉であり、そこから茶の湯がはじまっていくという文脈で考えると本当に面白いのですが、それまた別のところで。


*参考文献
河添房江『唐物の文化史ー舶来品からみた日本』岩波新書 2014年
辻惟雄『日本美術の歴史』東京大学出版会 2005年
芸術新潮『樂吉左衞門が語りつくす 茶碗・茶室・茶の湯とはなにか』新潮社 2008年

2016年1月7日木曜日

【第74回】「金沢歴活」生誕100年!ミスタータイガース・藤村富美男とミスタ ーホークス・鶴岡一人

プロ野球ファンとしては球春が待ち遠しい時季ですが、底冷えのする金沢にて早朝よりプロ野球草創期のスター選手と名物監督についてお話してまいりました。


本日の主役はこちら、ミスタータイガース、藤村富美男とミスターホークス、親分こと鶴岡一人。
共に1916年生まれで今年で生誕100年!

いやいやいや、歴活でプロ野球の話ってどないやねん、て思う方もおいでるでしょうが、リオオリンピック開催のオリンピックイヤーということでスポーツネタご容赦ください。

この2人、広島県呉市の出身で同い年、誕生日も2週間程度しか違わない同じ獅子座で、共に甲子園で優勝を経験するとい非常に似通ったバックグラウンドを持ちながら対照的な野球人生を送っていて興味深いのです。


戦前戦後のプロ野球のエピソードを交えつつ、代表の安藤さんがブレーブスファンということもあり大いに脱線しつつ盛り上がりました♪

ご参加いただいた皆さま、早朝よりありがとうございました♪